宇宙と光のこと ~天文学を読み解くヒント集~

先端技術センター 宮崎聡 准教授 インタビュー [1/3]

――研究者になったきっかけは何でしょうか。

宮崎:高校の物理の先生の影響かもしれないですね。昔から理科は好きでしたが、いろいろ複雑な現象が説明できる単純な原理を見つけていくのだという、自然科学のおもしろさを先生が熱心に教えてくれて、その影響で理学系の大学に入りました。最初は物理の研究者を目指していましたが、何となく宇宙物理のほうがおもしろそうだなと思い始めて、大学院では宇宙物理の研究室に入りました。だからもともとのきっかけは高校の先生の影響です。

――どのような授業だったのですか。

宮崎:ここに実際に使っていた教科書があるのです。高校の授業のノートを生徒が記録していて、それを本に起こしたというおもしろい本です。この方はもともと高校の先生でしたが、今は香川大学を定年退官されたあと、名城大学で教鞭をとられています。私が愛知県立千種高校に在学中にたまたまこの先生の授業を受けました。

どんな授業かというと、実践的なことをいろいろと授業中にやらせてくれるのです。坂を用意して、人が受ける力がどう作用するかとか、はかりの上に立って上下したときに、このはかりがどう振れるかとか。こういう実験は非常におもしろかったですね。非常に基本的なところから実験を通じていろいろなものを教えてくれて、だんだん複雑になっていくのですが、全てが無駄なく体系としてつながっている。こういう実験を通して物事を理解していくことを教えてくれた先生でした。それがおもしろかったので私も実験屋さんになろうと思って物理実験の研究室に入りました。

――大学で物理実験をやっていて、なぜ宇宙が面白いと思ったのですか。

宮崎:どうしてでしょうね。やはり大学院に入る前、学部の1年生の教養のころに土星の環を見せてもらったからかな。私は特に天文少年だったわけではなく、大学に入るまで望遠鏡をのぞいたこともありませんでした。でも、大学の地学の演習か実習で、「これが土星の環だよ」とある先生が屋上にあった望遠鏡をのぞかせてくれました。「これはガリレオが発見した衛星だよ」とかいって見せてもらっていました。そのときはガリレオが木星の衛星を見て地動説を唱えたとかいう知識はありましたが、自分で見るのは初めてだったから、宇宙っておもしろいという新鮮な感覚がすっと入ってきて、宇宙物理と心の中で勝手に融合したのですかね。
 大学一年時に受けた、杉本大一郎先生の地学の講義も大変おもしろかった。先生の書いた『宇宙の終焉』というブルーバックスの本が教科書だったのですが、一々教訓めいていました。ここで星がこのようにリアクションをするのは、人間社会で言うとこういうことに相当するとかユニークな表現が書いてあるのです。その先生のキャラクターも割と宇宙物理にひかれる原因の1つだったかもしれません。そんなふうに駒場で刺激を受けて、いざ大学院に行くときになぜか天文学教室には行かなかった。天文学教室はの定員は6人程度と少ないし進学が大変そうだったから。物理学教室にも宇宙物理をやっている研究室が幾つかあって、そのうちの1つに入れてもらいました。

――大学院ではどのような研究をされたのですか。

宮崎:日本で小田稔先生 *1以来、宇宙研を中心にX線天文学という分野が発展してきました。10 keVくらいまでのエネルギーの天体X線を人工衛星で観測するんです。私が大学院に入る直前に私の先生が、気球を使ってさらに10倍ぐらい高いエネルギーの(X線からγ線のちょうど中間ぐらいの)硬X線 *2の観測装置をつくって、超新星で生成されたコバルト56などの原子核が出すライン放射線を直接検出してやろうという研究を始めていました。1987Aが超新星爆発して、そこから直接来るγ線を捕まえるんだという発想がちょうどフィットして、私の指導教官の釜江常好先生が科研費をとってきて始めていたのです。ブラジルに行って気球を追いかけよう、とか何とか言われておもしろいかなと思って入ったのです。
 だから大学院のときはそのように硬X線の研究を始めました。私の学位論文は電波銀河から来る硬X線のエネルギースペクトルを分析して、活動的な銀河中心核の放射機構の説明を試みました。自分でデータをとって―もちろんグループで私はある一部を担当して、物をつくって観測して、それを解析して論文を書くという一通りを大学の研究室で学びました。観測する前にはずっとそうやって何か作る。どこかに行ってただ観測をするだけではなくて、何か新しいものを作るのが当然でした。物理ってみんなそうで、実験屋さんは物をつくるところから始まります。幸いにもそういうトレーニングを受けることができたので、今このように観測装置をつくって観測して研究することができているのだと思います。
 その先生は非常にやり手で、ちゃんとお金をとってきて、グループを組織して動かしていましたから、そういう姿も非常に勉強になりました。確立されたところに途中から入ってしまうと、駒の1つになってしまって、なかなか何もないところからつくり上げていくところは見ることが難しいと思いますが、大学院のときに入れてもらった研究室はすごくアクティブでした。もちろん、失敗もしましたよ。学位論文をとる直前の冬にようやっとデータがとれて、無事に博士課程を3年間で修了することができたのです。

大学院では、気球に搭載するX線観測装置に取り組んでいた宮崎さん。

 大学院卒業後、天文台の関口真木さんに声をかけていただいて、「今すばるという望遠鏡を作っています。望遠鏡は何とかめどがついたけれども、それにとりつけるカメラのセンサー、CCDと言われる光センサーを担当する人がいません」とお話をいただき、すばる望遠鏡の職を得ることができました。すばるのセンサー担当になって、かつ、その関口さんに誘われて、初代のシュプリーム・カム *3をつくるグループにも入れてもらったのです。1998年の12月末に望遠鏡のテストカメラがエンジニアリングファーストライトを受け、1999年1月4日にシュプリーム・カムがカセグレン焦点でファーストライトを受けました。カメラはその後改良され、最終的に完成したのは2001年4月です。それではまだ視野が十分広くないということで、2002年からシュプリーム・カムの10倍の視野を持つ第2世代のカメラを作り始めました。2012年に完成して観測での利用が始まり、現在も新しい研究成果を次々と生み出しています。

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ダークマターの分布を見るハイパー・シュプリーム・カム

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*1. 小田稔(1923-2001):天文学者、宇宙物理学者。1963年、X線源の正確な位置や形状を観測するための装置「すだれコリメータ」を発明。日本のX線天文学の基礎を築いた。

*2. 硬X線:X線の中でもエネルギーの高い(波長の短い)ものをこう呼ぶ。エネルギーの範囲は3 keV~100 keV程度(波長では0.4〜0.0124nm)。keV(キロ電子ボルト)はエネルギーの単位。

*3. シュプリーム・カム/ハイパー・シュプリーム・カム:最初の主焦点カメラ Suprime-Cam (Subaru Prime Focus Camera)は、満月とほぼ同じ大きさの 34 分角 × 27 分角という広い視野を一度に撮像することができる8000 万画素のデジタルカメラ。1998年に完成、1999年7月にすばる望遠鏡の主焦点に初めて取り付けられた。次に主焦点に搭載された超広視野カメラ Hyper Suprime-Cam (HSC; ハイパー・シュプリーム・カム)は、2002年に技術的な検討が始まり、2012年7月までに主要な部分の組み上げが完了。2013年より本格的な科学観測を開始した。8億7000万画素で、満月9個分の広さを一度に撮影できる。


2016.1.12